こんにちは、迷図です。
今回は私がプロフィールに書いている緩徐進行1型糖尿病について書いていこうと思います。病気をアイデンティティにしてしまうと治療の邪魔になるなどとも聞きますが、これこそが私の人生を左右したといって過言ではないですし、現在の医療では一生治ることのない病気です。まあ多分アイデンティティの一部としても差支えないでしょう。もしも医療が進歩して治ることがあっても、私が糖尿病だったことは覆らない過去ですしね。
まず私がこの病気の予兆を感じ始めたのは中学生の頃でした。自己紹介で少し書きましたが、私は中学時代不登校でした。いじめが当たり前にあり学級崩壊に近い状況になっているクラスにメンタルをやられてしまい、そのうつ状態を加速させたのが低血糖だったのです。緩徐進行1型糖尿病はその名の通り少しずつ進行する糖尿病で、発症してすぐはインスリンも必要ありません。ただ私の場合、膵臓が弱ってインスリン分泌が遅れてしまっていたようで、糖質をたくさん(といっても常識的な範囲です。お茶碗一杯のご飯とか)摂取すると血糖値が急上昇し、慌てた膵臓がインスリンを出す頃には既に運動などで下がり始めているために低血糖を起こしてしまう体になっていました。私はどうも低血糖がメンタルに来やすいタイプのようで、低血糖を起こす度に希死念慮に襲われます。実のところは今もそうです。インスリンを打ちすぎてしまうとすぐに死にたくなってしまいます。まあブドウ糖錠剤を口に入れるだけで治るんですが。とはいえ精神科に通っていた当時は糖質が関係あるなんて夢にも思わず、ごく普通のご飯とおかずの食事を取って、そうして食後5時間後くらいには決まって死にたい、死にたいと涙するようになってしまっていたのでした。もちろん向精神薬はほとんど効きませんでした。
それでもなんとか別室登校したりフリースクールに通ったり、プリント類を持ってきてくれる友人たちにも恵まれた(その内の一人が今の夫です)おかげで推薦枠で工業高校に入ることができました。この高校は設計士をやっていた父の母校でもあり、工業系に興味があってなおかつ強い私には非常に楽しいところでした。まず授業そのものが楽しかったです。義務教育では全くわからなかった「これはなんの役に立つのか」が示されてから学習に入るというのはモチベーションも上がりますし、知らなかったことを知ることの喜びみたいなものを学んだのはその頃でしょうか。しかしその頃には低血糖症が更に深刻化していました。少しでも空腹を我慢すると手が震え思考がまとまらなくなり、あまりの希死念慮に授業中であろうと下校中であろうと涙が止まらなくなることがありました。これは単なる症状だとわかっていても、死にたいという感情が外から投げ込まれるように頭に入ってきて、ずっとそれに支配されるのです。常にカバンにお菓子類を入れ、休み時間には手を震えさせながらそれを口に運ぶような日が続きました。甘いものを食べて少しするとそれらはすべて落ち着くため、私の体重は少しずつ増えていきました。そうしてある日、私にも少しは知識があったので低血糖症を疑いました。しかし病院に行っても「インスリンノーマもないのに低血糖なんて起きる訳がない」と取り合ってもらえず、私のつらい日々はまだまだ続くこととなりました。
そうして高校を出席日数ギリギリで卒業しましたが、こんな状態ではとても就職できず、就職支援センターで研修しながら就職先を探すことにしました。そこから就職したのは板金屋さんでした。支援センターから行ったインターンシップでの製図の仕事が楽しかったのです。ただインターンシップ先とは違いそこは現場の仕事で、材料一つ動かすのにもクレーンが必要な大型板金は体力のない私には向かず、数週間で熱を出し退職となりました。金属加工そのものは好きでも、体力がついていかない歯がゆさにただただ無力感を味わいました。
次に就職したのはケーキ工場のアルバイトでした。このとき既に会社勤めを一生やるのは無理だと悟っておりましたので、独立してケーキ屋をやりたかったのです。ただ製菓専門学校に行く勇気も出ず、まずは飛び込んでみようと行ってみたのでした。工場と言ってもライン作業などではなくすべて手作りのところで、8歳頃からずっと趣味で製菓をやっていた私なら少しはなんとかなる…と思っていたのですが、周りは製菓専門学校の学生さんや卒業生で最初からかなり焦りました。果物の皮を剥くので精一杯、休憩時間はほとんどなく低血糖で意識は飛び飛び、しかもクリスマス時期には8時始業の23時終業、8連勤も当たり前、残業手当はなしという条件で働き、案の定メンタルとフィジカルを壊し退職しました。もしケーキ屋をやることになってもクリスマスケーキを無視するか数量限定にするケーキ屋になろうという経験は得られましたが。
こうなれば短時間の労働でなんとか繋ごうと、パートタイムの職を探しました。8時半から15時、そして私の得意な製図の仕事ということで入ったのが今の紙加工の会社です。私の部署は主に箱を作っており、それに関する製図を任されていました。途中から正社員登用という形で機械オペレーターと兼任することになりました。この頃、糖質制限をすると低血糖を起こさずに済むことに気が付き、それでなんとかやっていけていたため親元を離れ一人暮らしを始めました。もうだいたいお分かりかと思いますが、経験者二人分の仕事を任され、家事(特に自炊ですね。糖質制限は自炊なしにはなかなか成り立ちません…)もすべて自分でやった新人の私は、また熱を出し続け退職しました。
社会生活不適合者の烙印を押されたような気分になりながらも実家に戻りしばらく療養し、少し体調が回復してきたので無職を楽しむことにしました。開き直るのが上手くなったのかもしれません。貯金だけは得意だったので、しばらく働かなくても蓄えはありましたしね。旅行に行ったり、ただツイッターばかりして過ごしたりしていました。しかしながらまた転機が。先輩が鬱で退職してしまい、元々3人しかいなかった部署でたった1人になってしまった元上司からお呼びがかかりました。今書いていて、この時点で嫌な予感がしますね。そうです、私はまた体調を崩しまくり休み休みパートをしていたのです。今度は糖質制限をしていても高血糖による強い眠気が、そしてその反動で来る低血糖が起きました…が、ついに尿糖が下りました。長い低血糖症期間を経て、私はやっと糖尿病と診断されたのでした。そうなってからは早かったです。今の医療制度では糖尿病と診断されない限り何もできないらしく、2型のように徐々に進んでいるものの抗GAD抗体が高いため緩徐進行1型糖尿病という診断が下りました。インスリン療法が始まり、1食20g以下程度の糖質制限ではどうにもならないほど(糖質1gで血糖値が10mg/dl上がる…)悪化していたことが判明しました。
そこから今に至ります。少しずつ血糖コントロールがうまくいき、低血糖で死にたくなることも高血糖で非常に強い眠気に襲われることもほとんどありません。10年ほども悩まされていた希死念慮とはそんな形で離れることとなったのです。そして、私は同じようになんらかの理由で仕事が上手くできず困っている人の力になりたいと思うようになりました。会社勤めがしんどいのはインスリンを手にした今もあまり変わりありませんので、なおのこと強くそう思いました。そして製菓関連で食べていきたい。もしかすると、そのやや強欲な夢の一つの形がエデン京都になるのかもしれません。やっていきましょう。
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